「心の扉を開けて」40代/主婦
 私は田舎の大家族の中で生まれ育ちました。古いしきたりの残る家でしたが、曾祖母を中心としたクリスチャン・ホームでした。朝は家庭礼拝で始まり、事あるごとに祈りがなされました。その中で、私も幼いころは家族と喜んで教会に通っていましたが、小学校の高学年頃から、家族に対する反発と「本当に神さまはいるのか」という疑問から、教会から離れて行ったのです。わが家は人の出入りがとても多く、遠縁の人も入れ替わり長く滞在します。曾祖母らがお客様と楽しく過ごしている傍らで、朝から晩まで忙しく働き続ける母の姿が不公平に映りました。また、信者の言動に偽善はないかと冷ややかに観察している自分がいました。どうしても神さまを自分のものとして受け入れられない自分でありながら、何とか「神さまがいるのかいないのか、生き方を左右するこの大きな問題に確信を持ちたい」という思いも強くありました。

 高2の夏のことです。英語を勉強する目的で、教会とも家族からも離れ、一人でバイブル・キャンプに参加しました。それは、家族の一員としての自分ではなく、全く裸の自分と神さまとの初めての出会いをする時となったのです。自分自身の罪の問題を、初めて真剣に問われました。家族とは関係なく、自分は神さまとどう向き合うのかを問われ続けました。また、キャンプの裏方として、キャンパー一人一人のために祈り賛美しながら、キッチンや外回りの仕事をしている同世代の人々の、喜びにあふれた姿に驚きました。信仰は絵に描いたものではなく、「救い」そのものであり、すばらしい喜びであることを初めて知ったのです。人をここまで喜びに輝かせることのできる神さまは、本当に生きて働いておられるのだと感じました。また、自分が人の欠点ばかり探してさばき続けている傲慢な人間であったことも示されました。そこで、「神さまは本当に存在する」というすごい事実を確信しましたが、「神さまを否定し続けたこんな自分でも、神さまから受け入れられるのか」と不安に思った時、聖書のヨハネ黙示録3章20節、「見よ、わたしは戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは彼のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」というみことばを与えられました。神さまは、私の幼い日から今に至るまで辛抱強く私の心の扉をたたき続けてくださったことを知りました。初めて、その戸を自分で開けて、悔い改めのお祈りをして、神さまに入って頂いたのです。1971年7月25日の晩のことでした。

 翌日の朝は、今までの朝と違っていました。キャンパー一人一人は信仰の友となりました。自宅に帰り、家族からの心からの祝福を受けました。今まで反発していた家族の一人一人が、私のために祈り続けていてくれたことを知りました。自分の幸せだけが目標だった生き方が、神さまのみむねを探る生き方に変わりました。

 それから長い年月が経ち、私にも家族が与えられました。思いもよらない課題も多くありますが、高2の夏と変わらずに共にいて下さり、日々導いてくださる神さまに感謝し、これからも喜びにあふれた信仰生活を過ごして行きたいと思っています。