「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」30代/会社員(男性)
 教会に来るきっかけは、2000年春の「心の泉アワー」でした。前々からキリスト教に興味があり1度教会に行ってみたいと思っていたので、家に入っていたチラシを見て行く事にしました。それからは、日曜に時間があれば、礼拝に参加するようになりました。その年は、会社に入ってから一番責任のある仕事に携っており、それだけ精神的につらく、医師に相談したり会社を無断欠勤したりと、気持ちの面で追い詰められた状態が続いていました。

 半年くらい経って教会の先生とお話した時に、自分もクリスチャンになりたいと願い出ていました。それは、今ある現状から救われたい、楽になり たいということから、すがる思いでの願いでした。それから、教会の先生との学び会が始まりました。キリスト教って何?から始まって、少しずつ聖書を学び、同時に自分が今抱えている問題を相談したりしました。

 その年の暮れ、仕事の方では無事新製品を出す事ができ、比較的仕事も落ち着いてきた頃、私の心の中は、別にクリスチャンにならなくてもよいかなという思いになりました。このまま、時間があるときには礼拝に参加し、学び会も定期的に参加すれば自分にも得るものがあるから、無理することなくこの生活パターンでもよいかなと思いました。教会の先生からは、クリスチャンになりなさいとか、そろそろ良いですよとかの言葉はなく、ただ、「よい導きがありますように」と祈って頂くだけでした。私自身は「あれ、もう少し勧誘の強い言葉をもらってもいいのに・・・。なぜ、もっと勧めて下さらないのかな。」とかと思うようになりました。

 こんな状況が暫く続き、「おかしい!」「いつになったら」という会話が、自分の中に充満してきたときでした、ふっと私に心に浮かんだ言葉は、いつも自分はきっかけを待っているのではないかということでした。

 一番最初にクリスチャンになりたいと思ったのも、仕事が大変だったから、精神的につらかったからという周りの環境をきっかけとして選択しようとしていました。また、しばらくして、クリスチャンにならなくても良いかと思ったのも、自分の生活が安定してきたから、今は大変じゃなく救いを求めなくても、大丈夫だからと考えました。それがしばらく続くと、何故周りの人は何も言ってくれないのだろうかと、今度は回りに自分のきっかけを求めていました。私は、あまり人前に出て行かず、周りと合わせる(よく言えば協調性があるですが)のが上手で、そこそこに人生をこなしてきた事に気がつきました。私はそこで、あらためてクリスチャンになる事、選択するか、しないかを考えました。「なる、ならなくてもいい、どっちを取る?」結局私はクリスチャンになる事を選択しました。本当にSimpleな選択でした。しかし、本当に自由で大きな選択でした。もちろんちょっと飛び込む勇気は必要でした。

 いつか、何か、きっと・・・、と大きなきっかけを待っている自分、だれかが手を差し伸べてくれて、自分にあったアドバイスが与えられる事を待ち続けている自分から、神さまの愛を目指して思い切って踏みだし、自分で選択し、自分で進んでいくことへ切り替えたのです。神様は、そんなすべての自分を受けとめ、待っていて下さいました。
 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。誰でも、私の声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」【ヨハネの黙示録 3章20節】 このようにずっと待っていて下さいました。

 私は、聖書のみことばでもう一つ、大好きな言葉があります。つまずいた時、うまく行かないとき、私はいつもこの言葉を思いだします。
 「天の下では、何事にも定まった時期があり、全ての営みには時がある。
  生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
  植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がる。
  殺すのに時があり、いやすのに時がある。
  くずすのに時があり、建てるのに時がる。
  泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。
  嘆くのに時があり、踊るのに時がある。・・・
  愛するのに時があり、憎むのに時がある。
  戦うのに時があり、和睦するのに時がある。
  神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」【伝道者の書 3章】

 クリスチャンになる選択も、全ての事に時があったのだと思います。
 そして、洗礼式の時、私は不思議な体験をしました。それは、教会の皆さんの祝福、神様が見守ってくださっている安心感、そんな何とも言えないあたたかさ、うれしさを感じたのです。

 当日、教会のベンチに座っていると、「うゎ〜、本当に祝福されている。ありがたいな〜、うれしいな〜。」という気持ちでいっぱいになりました。また、私の背中にびんびんと愛情が伝わってきていました。賛美歌を歌ってうれしくて涙ぐみ、皆さんの前に紹介して貰って、うれしくてたまりませんでした。
そんな洗礼式から半年たちました。私は最近、よく短い祈りをします。

 「神様、後1時間、後10分、私の健康を見守ってください。神様どうかこの事をよい方向へ導いてください」と。仕事で疲れて投げ出したくなる時、プライベートでうまく行かない時、いろんな事で行き詰まった時、短い祈りをします。その時にすぐに明快な回答が得られるとは限りませんが、いつも神様に見守られている安心を感じます。つまずいて転んでも、「今はそういう時。落ち込まなくてもいい。きっと前に進める。今やれる事をやればいい。」と思えます。お陰様で、全ての事に意味があることが分かり、以前よりやる事は増えましたが、充実した元気な生活を送っています。