「ただ恵みによって」牧師/徳竹憲子
 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」IIコリント五・17

 冒頭の御言葉の如く、主イエス・キリストの贖いにより、魂の新しい生まれ変わりを頂き、神様との交わりの世界を歩むものとなりました事を感謝致します。

 私は埼玉県大宮市で生まれ育ちました。父は警察官、母は教育者の家庭に育った人で、大変厳格な家庭でした。宗教に対しては、仏壇も神棚もなく、無宗教の家でしたが、私は幼稚園の頃、ある家で行われていた教会学校へ通い、イエス様が神様であられること、そして私のことをいつまでも覚えていて下さる方であることを知りました。しかし、その後はキリスト教とは全く無縁な生活をしていました。

 思春期に入った頃から、自分自身について、人生について考えるようになりましたが、解決がつかない事に深く悩んでいました。社会に出てからは、自由な生活を楽しみ、スポーツに旅行に、趣味にといろいろなことを行い心の満足、充実した生活を求めましたが、真の神様無しの心と生活は空しさのみで、心に平安と満足は与えられませんでした。

 また、人間関係についても、競争心や妬み、憎しみ合い、騙し合いと、醜い人間の姿に失望し、自分はそんな人間の中で、どう生きるべきなのか?と困惑し悩み、私の青春時代は暗く、生きる希望を失いつつありました。

 そんな時(1970年10月)一枚の特別伝道会案内のビラが家に配布されました。それは、奇しくも自宅近くに移転して来た、インマヌエル大宮教会の献堂記念特別伝導会を知らせるものでした。「そうだ。教会に行ったら何か解決が有るのでは?」と思い、三日間の特伝に出席し、メッセージを吸い取るように伺いました。語られる御言葉に心の渇きが潤され、この道こそ人の生きるべき道で有ると深く納得できましたので、信仰の決断をしました。そして、その年の12月21日に受洗の恵みに預かりました。天使と羊イラスト

 特伝以来、教会のすべての集会に出席しました。しかし、メッセージに触れるたびに、内なる罪について指摘され、「本当に悔い改めたのか?」と問われました。自分は罪を大風呂敷に包んだままで信仰生活を始めているゆえに、罪責感で苦しくなり、ついに十字架の前に罪を一つ一つ思い出す限り悔い改め、イエス様の血によって全ての罪を赦してくださった事を信じ、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と語られた御言葉によって、救いの信仰に堅く立ち、心に平安と満足が与えられました。以来約三十年、自分の努力、頑張りではなく、ただ神様の恵み、憐れみによって、罪を赦され聖潔られ今日迄、神様と偕に歩んで来られた事を感謝しております。

 「『キリスト・イエスは、罪びとを救うために来られた』ということばはまことであり、…私はその罪びとのかしらです。(Iテモテ一・15)」